●日本刀・刀剣につきまして。


◆日本刀の歴史。


●古代の刀。

日本では独自に青銅製の刀剣類が生産されていましたが、古墳時代以前にはすでに鉄製の刀剣類の生産が始まっていました。

例えば、埼玉県の稲荷山古墳や島根県安来市の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳(現古代出雲王陵の丘の一部)からは鉄剣、大刀が出土しています。

稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル(雄略天皇)に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれています。

この時代の刀剣の多くは破損していますが、島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は、奇跡的に優れた保存状態にあり、黄金色の柄をもち刀身さえも古代の輝きを今に伝える稀有な例として有名でです。

7 - 8世紀以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」や「七星剣(しちせいけん)」、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうのからたち)」などが知られている(湾刀完成以前の直刀には「太刀」ではなく「大刀」の字をあてる)。

推古天皇が「馬ならば日向の駒、太刀ならば呉のまさび」と詠んでいるように、この時代、呉(中国南東部の総称)の刀が最良とされていました。

が、日本の鍛冶職人の水準も上昇してきました。

正倉院では唐太刀と呼ばれる海外からの渡来品と共に、唐様太刀と呼ばれる国産のまし直刀も保管されています。

また、平造り・切刃造りの直刀、蕨手刀(わらびてのかたな)といった国産の剣も現存しています。

平安時代初期の刀剣の遺品は乏しく、作風の変遷や、いつ頃どのようにして日本独自の湾刀が形成されたかについては、はっきりと分かっていません。

おそらくは奥州に住んでいた蝦夷の技術の影響を受け、直刀片刃に角度をつけた蕨手刀(彎曲刀)や、柄に透かしをつけて斬撃の衝撃を緩めた毛抜形蕨手刀、毛抜形刀、毛抜形を経て、反りのある日本刀に変化していきました。

反りをつくことで引き切りに適した武器となり、特に騎馬戦で使いやすくなった。刃金となる硬鉄を炭素含有量のことなる地金で巻き鍛造する製刀法は蕨手刀より見られるようになりました。

また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り(しのぎづくり)」の刀剣が造られるようになったのもこの時代です。

「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされています。

以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には大宝年間(8世紀初頭)の刀工・天国(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。

毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが有名です。
柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名があります。

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