●日本刀・刀剣につきまして。


◆南北朝時代の日本刀。


南北朝時代は、刀剣武具史ではあえて別な時代として見るのが一般的です。

この時代の刀剣は他の時代と違い大太刀・野太刀といった大振りなものが多く造られています。

すでに述べた通り、この時代は相州伝が各地に影響をおよぼしています。

刃文は「のたれ」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えたものが良く見受けられ、古来より一大勢力であった備前国においても、当時長船派の棟梁格であった兼光一派の作にも、伝統の丁子乱れ(ちょうじみだれ)ではなく、互の目乱れが見られ、後の長船一派の刀工へ影響を及ぼしています。

この時代の太刀は、元来長寸の大太刀であったものを後世に磨上げ(すりあげ)・大磨上げ(おおすりあげ)されて長さを調整され、打刀に造り直されているものが多い。

天正年間に織田信長などの戦国武将が、秘蔵の太刀を多く磨上させていることから、室町末期の磨上を「天正磨上」と呼び非常な名刀が多い。

また、この時代には小太刀もいくらか現存しており、後の打刀を連想させるものと思われます。

◆室町以降の日本刀。


室町時代初期には備前国で「小反り」と呼ばれる一派が活躍しました。

主な刀工は長船政光、秀光、師光などです。

続く応永年間には、備前長船盛光、康光、家助、経家などの名工が輩出しました。

これらは応永年間に作られたものが多いので、世に「応永備前」と呼ばれています。

応永備前の特徴は、鎌倉時代の太刀を狙った腰反りがつく優美な姿である点にあします。

また、嘉吉の乱で、室内戦闘用に鎬作りの短い刀が求められたため、脇差の製作が行われた点も重要なポイントです。

太刀から打刀・脇差の二本差しスタイルが生まれたのはちょうどこの時期です。

応永備前の打刀(2尺3寸前後)、脇差(1尺5寸前後)は非常に姿が良く、江戸時代に大名が美しい拵えを作るために珍重されました。

この頃、たたら製鉄技術が一段進歩したと言われ大規模な製鉄場跡が見られるようになりました。

(室町中期以降、日本刀は刃を下向きにして腰に佩(は)く太刀から、刃を上向きにして腰に差す打刀(うちがたな)に代わってまする。

なお、太刀・打刀とも、身に付けた時に外側になる面が刀身の表で、その面に刀工銘を切るのが普通です。

したがって、銘を切る位置によって太刀と打刀の区別がつく場合が多いが、裏銘に切る刀工もいる。)

平和な時代が始まったため刀剣の国内需要は低下しましたが、明への重要な貿易品としての生産も行われるようにもなりました。

そして、応仁の乱によって再び戦乱の世が始まると、膨大な需要に応えるため、足軽など農民兵用に「お貸し刀」(貸与される刀)などの粗悪な「数打物」と呼ばれる粗製濫造品が大量に出回るようになりました。

戦国時代に入ると刀剣生産が各地で行われ、特に祐定を名乗る刀工だけでも60名強揃った備前国と、兼「某」を名乗る刀工が活躍した美濃国が生産拠点の双璧でした。

他には、豊後、三原、大和、加賀、越中、駿州が知られています。

寛正年間から火縄銃が普及する天正頃まで、片手打ちの刀(2尺前後)が多い。

また、合戦に明け暮れる武将は、己が命運を託する刀剣を特注することもありました。

これら「注文打ち」には名刀が揃っています。

重要文化財に指定されている「長船與三左衛門祐定」の永正年期作は、注文主の栗山某の美意識を反映してか、元から中ほどまで中直刃で、中から先まで互の目乱れを焼き、従来にはない感覚の異色の名刀です。

同時代の著名な刀工としては、備前の則光、在光、賀光、祐光、勝光、宗光、清光、春光、治光、幸光など、美濃の兼定、兼元、兼常、兼房、兼先、兼道、兼則、兼若、氏貞などが挙げられます。

他の地方では、相州綱広、千子村正、高天神兼明、豊後平鎮教、平安城長吉、手掻包真、加州行光、宇多国宗、波平某などがあります。

その他無名の刀工を含めると、第二次世界大戦時より刀工の数が多かったものと思われます。

南蛮貿易による鉄砲の伝来によって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていっきました。

まず、鉄砲に対抗するため甲冑が強化されました。

また、大規模な合戦が増えたため、長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、身幅広く、重ね厚く、大切先の刀剣が現われ始めました。

この姿が豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ、豪壮な「慶長新刀」体配を生み出す土壌となりました。

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