●日本刀・刀剣につきまして。


◆幕末動乱期の日本刀。


江戸期の脇差(東京国立博物館所蔵)黒船来航前夜の安永前期。黒船来航を待たずして度重なる飢饉、政策の失敗続きなどにより、武家の衰退が顕著となり、社会の変革の風を人々が意識・無意識に感じ始めました。

そんな時代に出羽国から江戸へ上り、鍛刀技術を磨くものが現れました。

安永3年に正秀と銘を改めた川部儀八郎藤原正秀、即ち新々刀の祖と呼ばれる水心子正秀(すいしんしまさひで)の登場です。

これより明治維新までの時代を「新々刀」と区分します。

特徴としては、製鉄技術の更なる進歩により綺麗な鉄が量産されるようになったため、地鉄が無地に見えることがります。後期には洋鉄精錬技術も取り入れられ、さらに無地風の地鉄が作られました。

地鉄の変化と焼入れ技術の低下からか、総じて匂い口が漫然とするものが多い。

また逆行するが如く、色鉄を用いたり、無理に肌を出した刀や、古作の写しものが出現すました。姿は各国でまちまちであるが、総じて身幅広く、切先伸び、反りのつくものとなりました。

正秀の弟子は全国各地へ散り、文字通り新々刀期の刀工のうち、正秀の影響を受けていないものは皆無と言って良いほどである。著名な弟子に大慶直胤、細川正義、加藤綱俊がおり、各々正秀と同様、多くの門人を育てました。

正秀一派が活躍する一方で、信州に鬼才が生まれました。

はじめは大坂新刀の流れを汲む尾崎一門の河村寿隆に作刀を学び、侍になるべく江戸へ出、幕臣であり軍学者であった窪田清音に才能を見出され、各家伝来の古名刀の写しを作る。

彼こそ、江戸期を代表する刀工となった源清麿です。

私生活に問題があり、長州に隠遁したり、鍛刀せずに大酒を飲み、当時の著名刀工固山宗次と飲み比べ合戦を行ったエピソードは有名です。

源清麿は初銘を「秀寿」と切り・「環」・「正行」・「清麿」と推移します。

四谷に住んだため「四谷正宗」の異名を持ちます。

古作の現物を見て写しを造り腕を磨いたため、正秀一門の写し物とは姿、出来が大いに異なります。
特に左文字写し、志津兼氏写しを得意としました。

地鉄も他の新々工とは一線を引き、鍛え肌美しく力強い。

また、焼き刃は古作の如く、盛んに金筋を交える。しかし、多額の借金(鍛刀の前受け金)を残し42歳で自殺しました。

弟子に栗原信秀、藤原清人、鈴木正雄がいます。

藤原清人と栗原信秀は、師匠が自殺した後、残された約定の鍛刀を引き受け、借金を返したという逸話を残しています。

水戸勤皇派による天狗党の乱、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変などがあり、諸国でも佐幕派と尊王攘夷派が入り乱れて闘争が行われるようになりました。

時代環境に合わせて、江戸初期以降、作刀数の少ない短刀の需要、長大な刀を好む武士も増え、作
刀が再び繁栄を始めたところで明治維新を迎えます。

◆明治から第二次世界大戦期の日本刀。


帝国陸軍の軍旗のもと、将校は軍刀で、下士官兵は銃剣を着剣した小銃で戦う模様を描いた錦絵(日清戦争・平壌の戦い)明治6年、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品。

国際社会に日本人の技術と精神を示すものでした。

しかし明治6年(1873年)に仇討ちが禁止され、明治9年(1876年)には廃刀令が発布され大礼服着用者・軍人・警察官以外は帯刀を禁止されたことにより、日本刀は急速に衰退してしまいました。

新たな刀の需要は殆どなくなり、当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失いました。

また、多くの名刀が海外に流出した。それでも政府は帝室技芸員として、月山貞一、宮本包則の2名を任命。伝統的な作刀技術の保存に努めました。

歩兵連隊長を筆頭に、連隊長(将校)は日本刀を仕込んだ両手握りサーベル拵えの明治19年制式刀、左後方の本部附見習士官・下士官は日本刀風拵えの九五式軍刀、他の一般下士官兵は着剣した三八式歩兵銃で軍旗の敬礼を行う姿(日中戦争・南京攻略戦)一方、新生大日本帝国の国軍として創建された日本軍(陸軍・海軍)は1875年(明治8年)の太政官布告にて将校准士官の軍装品として「軍刀」を採用した(なお、同日本軍において下士官兵(騎兵・輜重兵・憲兵など帯刀本分者)の軍刀は基本的に官 給品であり扱いは「兵器」であるが、将校准士官の軍刀は上述の建軍まもない1875年の太政官布告以降、第二次世界大戦敗戦による日本軍解体に至るまでほぼ一貫して服制令上の制式であり、そのため扱いは「兵器」ではなくあくまで軍服などと同じ「軍装品」でした。

九五式軍刀(官給軍刀)。鞘を除く拵え自体は日本古来の太刀をイメージしながらも実戦に特化した全金属製となりました。

刀身も実戦に特化した陸軍造兵廠製の日本刀従来の日本刀は北方の極寒の中では簡単に折れるため強度に対して、また海軍からは錆に対する不満が高まっていたため満州事変以後、陸海軍の工廠、帝国大学など各機関の研究者は拵えだけでなく刀身においても実戦装備としての可能性を追求しました。

例として、官給軍刀の刀身をベースにした陸軍造兵廠の「造兵刀」、満州産出の鋼を用いた南満州鉄道の「興亜一心刀(満鉄刀)」、北支・北満や北方方面の厳寒に対応した「振武刀」、海軍が主に使用した塩害に強いステンレス鋼使用の「不錆刀」など、各種の刀身が研究開発された。日本刀の材料・製法を一部変更したものから、日本刀の形態を模した工業刀に至るまで様々な刀身が試作・量産され、「昭和刀」「昭和新刀」「新村田刀」「新日本刀」などと呼称されました。

官給軍刀を含むこれら特殊軍刀々身は、近代科学技術の力をもって開発されたものであるため、物によってはとして従来の日本刀よりも(俗に名刀と呼ばれる刀であっても)武器としての資質において勝るものも数多くありました。

軍刀(工業刀)は総じて粗悪品だったという俗説も未だ根強いですが、そういったものは悪徳業者の販売した粗悪刀などで、一部を除き(試行錯誤の初期や、余裕の無くなる第二次世界大戦末期には粗悪品が見られる)妥当な評価ではなく、また近代戦における戦場という劣悪な環境に置かされる事情も考慮に入れる必要があります。
鋳造説、官給軍刀・造兵刀は粗悪品説に至っては論外です。

これらは陸海軍の将校に、従来の日本刀に比べて手入れが少なく切れ味が持続すいう圧倒的に優れた性能を持ち、安価で惜しげなく使える刀身として重宝され、下士官兵には官給軍刀の刀身として支給・実戦投入され、第二次大戦終戦まで大量に使用された。

将校准士官の軍刀は軍装品であり私物であるため、これら特殊軍刀以外にも先祖伝来のものや内地で特に入手したような旧来の日本刀(古刀から新作現代刀まで)も大量に軍刀として使用されました。

広義に「軍刀」とは軍隊で使用される刀剣を総称(通称)する単語であり、場合にり語弊が生じることにも注意を要する。

本来の「戦う日本刀」「戦いの武器としての日本刀」「実戦刀」という観点では、各特殊軍刀々身は「完成された日本刀」となり、肝心の実用性に於いては究められたものの、刃紋を有しないなど見た目の美的要素は二の次な物が多く(特殊軍刀々身においても、関の古式半鍛錬刀の様に双方を兼ね備えた刀身も開発されている)、今日では製造方法の上からも狭義の日本刀の範疇には含まれないことには
なっています。

しかし、近年では刀剣界では今まで見向きもされなかったこれらの軍刀にも人気が出てきており、同時に研究家や収集家の新たな発見や偏った俗説の否定など、再評価の声が高くなっています。

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